先日、こんな記事がRSSで流れてきた。
自分が代替不可能な存在であることに気づけるか
これは原発の話と経済活動の話をしているのだけれど、ここでそんな話をするつもりはない。

僕がしたい話は、「代替不可能な存在」と「代替不可能だと思わせること」だ。
上の記事では、「皆が皆代替不可能な存在だ!AV女優なんてのは代替不可能な自分を切り売りしてるだけなんだ!」的な論で進んでいる。

本当かそれ。

本当に自分は代替不可能か?と考えてみれば、僕は少なくとも「NO」と言わざるをえない。
例えば昨日の僕は授業のTAをやって、データの入力をして、家に帰って飯食ってテレビ見たりネットしたりして寝ていた。
ネットやテレビは何でもいいとして、前半部分のTAやデータの入力なんて、まぁはっきり言ってしまえば誰でも出来る。少しのコツやノウハウは必要だし、僕のゼミの先生の授業なのでゼミに所属する必要はあるけれども、タイピングがしっかり出来れば問題なくこなせる仕事である。要は条件は絞られども、僕以外のゼミ生でもこなせる仕事ではある。

例えば今日の僕は、会社に行って学生団体の代表として、的なお話をしてネカフェで漫画を読んで家に帰って虫と殺虫剤で格闘して今ブログを書いている。
学生団体の代表とか名乗っているけれども、そんなものは腐るほどいる。早稲田の構内で石でも投げればそれこそ32投目くらいでは学生団体の代表に当たるだろう。それがたまたま僕だった、というだけの話である。殺虫剤で虫と格闘に至っては僕が最も苦手とすることだ。とっとと代替してほしいものだ。

ただきっと上の筆者が言いたいことは、それは普段の生活的なことで、存在的にはもっと代替不可能な部分があるだろう!と言いたいのだろう。
では、子供は本当に代替不可能だろうか?恋人は?家族は?夫や妻は?
それは、そう「思っている」だけなんじゃないか。

塩谷瞬料理研究家とモデルを両方食べるし、大魔神佐々木は榎本加奈子にしれっと乗り換えるし、僕も大学に入って彼女が1回代わった。
親は子供に、「もっと賢ければ…」と思うし、俺は親に何度「こんなヒステリックな母親とダメな父親じゃなければな…」と思ったか覚えていない。

全てのものが全てのものを代替可能だとは言わない。今僕に彼女はいないが、もし彼女がいて彼女と森三中大島を交換しろ!と言われたら断固拒否するだろう。だがもしそれが彼女と堀北真希だったら、僕は頭を抱えて悩んできっと堀北真希を選ぶだろう。

大事なのは堀北真希を選ぶことではない。そう、悩むことなのだ。
今僕は特定の女性を思い浮かべてはいないが、もし彼女がいた頃だったら「堀北真希を選ぶ」とは書いていない。多分、そこの件が「だがもしそれが彼女と堀北真希だったとしても、僕は頭を抱えて悩んできっと彼女を選ぶだろう。」になっていた。

それが、「代替不可能だと思わせること」、「『こいつじゃないとダメだと思わせる』こと」なのだ。
それを思わせれば、例えばあなたがフットボールアワーの岩尾でも向井理に勝てるかもしれない。
僕が代表をしている学生団体にスティーブ・ジョブズが乗り込んできても、もしかしたらサークルのメンバーは僕を選んでくれるかもしれない。

つまり日常の「代替不可能」というのは、相手にそう思わせられるかられないかなのだ。
思わせられないから他の男のほうがいい!って言われ振られるし、幹部会議で不信任動議が乱発される。

だから僕らに大切なのは、「自分が代替不可能な人間である」と思う(実はそうじゃないと知って絶望する
)のではなく、「あいつは代替不可能なんじゃね!?」と思わせることなのだ。

代替不可能な人間はいなくとも、誰とでも代替可能な人間もいない。その代替可能性を狭めていくことこそ自分を定義するアイデンティティになるんじゃないか、なんて思ったのです。

というわけで寝言中の寝言でござりました。